髙崎唱歌
散歩風景11
吉永哲郎
唱歌の12番は、「宮元町の東なる 下横町に向雲寺 白龍山の興禅寺 和田の七騎の墓所」です。興は下横町を散策します。この町は元和年間(1610年代)高崎城主安藤氏の荘園でした。
興禅寺と向雲寺と大きな本堂をもつ姿は現にあり、寺町の面影を残しています。下横町は幕末から明治にかけて薪炭店・酒類販売店・洋服裁縫所など、日常必需品を揃えた見せが並び、人の往来が多く賑やかな町でした。店は少ないですが、現在も面影を伝える店構えを見ることができます。
中でも時の流れを感じさせる店のことを思い出します。明治12、3年頃に当時貴重品であった「鶏卵」を扱う店ができました。現在のように大量に鶏卵を入手出来ない時代、近郊の農家に「地卵ひろい」をして集め、商っていました。店頭には「卵」運搬専用のリヤカーを前にしたような赤塗の特別規格の自転車が置いてあったのを覚えています。
鶏卵は軍隊をはじめ、旅館・料亭が多く市内にあった時代、需要が多くあった背景がありますが、時代の趨勢とともに店の姿は消えました。
興禅寺の墓地は八幡霊園に移りましたが、以前その墓地の入り口に「高崎育児院墓」と刻まれた小さな墓石があり、側面には2歳から12歳までの童子・童女ばかりの戒名が刻されていました。
育児院は明治39年に開設された、高崎初めての民間福祉施設。時の住職が高崎駅での捨て子を引き取り、寺で養育したことがきっかけと、伝えられています。今日の散策、忘れてはならない庶民の姿を偲ぶことになりました。
(2018年6月稿)