高崎唱歌
散歩風景②
吉永哲郎
「髙崎唱歌」第2番は「汽車の線路はたて横に 電燈電話に水道や 文明機関備はりて 市(まち)の繁栄日に進む」です。明治17年(1884)に高崎上野間が、翌年に信越線横川まで、明治22年(1889)に両毛線小山まで、上越線渋川までは大正10年(1921)、八高線は昭和9年(1934)にそれぞれ開通しました。文字通り「線路はたて横に」です。また、高崎・東京間の電信の架設は明治10年(1877)、現スズランデパートの東隣敷地に高崎電信分局が設けられ開通しました。電話は明治29年(1896)、ランプに代わって市内の家庭に電燈がともったのは明治37年(1904)です。
注目したいのは電信架設が電燈より10年早く開設されたことです。電柱のことを「デンシンバシラ」と口にする人が多かったのは、電信線も電燈線もそれと区別していなかった時の一般的呼称だったのです。電燈より電信が必要であった背景には、明治政府が反政府運動の情報収集手段としての意味をもっていました。
高崎が早かったのは高崎線開通と深い関係があり、具体例に「群馬事件」(高崎線開通式に来られる天皇、政府高官襲撃計画)が取り上げられます。その情報が事前に関係機関に伝わり、ことは起こらなかったのですが、実際には現富岡丹生の生糸生産会社襲撃という暴発がありました。
こうしたことから考えますと、高崎は明治近代化の波をいち早く受け、それこそ「文明機関備はりて」です。現高崎駅構内の鉄道風景は、将来の高崎繁栄へのシンボルだと、私は感じます。
(2017年9月稿)