59.高崎新風土記「私の心の風景」

塩原屋太助寄進の石玉垣

吉永哲郎

 初詣に榛名神社をお参りしました。整備された社家町を通り随神門をくぐりますと、厳粛な「幽玄の杜」の空間を感じます。しばらく行きますと、参道と榛名山の天神峠への旧道の分岐点に着き、参道の石段の登り口の右側の石玉垣の正面に、「奉献江戸本所塩原屋太助」と刻された文字が目に入ります。横に「文化五戊辰年吉祥日」とあり、凡そ二百年前に寄進されたことがわかります。
 さて、塩原太助は十九歳の時江戸へ出て、味噌屋や薪炭問屋で働き、四十二歳で独立、他の店より安く、また「はかり売り」という庶民的新商法が成功し、本所相生町に店舗を構え、名を馳せました。太助の名が一般に知られるようになったのは、明治十一年に完成した三遊亭円朝の『塩原多助一代記』が、明治二十五年歌舞伎座の新作「塩原多助一代記」として、五代目尾上菊五郎により上演され、人気を博してからです。その上、円朝の多助の一代記は、努力家の立志伝として教育的な意味があると、修身教科書に掲載されたことにより、一層知られることになったようです。県内では、上毛カルタの「沼田城下の塩原太助」で、その名を知る人が多いようですが、その実像については、円朝による太助像が中心で、あまり知られていません。
 高崎には、太助の実像にかかわるものがいくつかあります。この石玉垣はその一つですが、もう一つは天神峠の石灯籠です。これらを通して塩原太助の心意気を偲ぶのが、高崎商人というものと、私は思います。ちなみに鏑木清方描く円朝の肖像画の羽織の紋は、高崎藩主の三扇です。高崎との縁を感じます。

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