高崎サクラ物語
(2016年03月29日)
観音山 山頂駐車場付近(昭和30年代)
観音山 参道(昭和30年代)
お堀端(昭和40年代)
●高崎に数々の名所
サクラの季節は今も昔も人々の心を浮き立たせる。高崎では、滝の慈眼寺のシダレザクラと観音山が古くから花の名所として知られていた。
慈眼寺のサクラは、南北朝時代の文和年間(1352~55)に中興の乗弘大徳師が境内にサクラを植え、この地に仏教が広まるならばサクラが繁茂するよう祈願したところ、世にもまれな大樹となった。このサクラは観音の慈悲とともに、里人の心を癒した。また、享保の頃(1716~1735)、前橋城主酒井忠清が自分の位階をとって名付けた「少将桜」、別名夜泣き桜がある。
また上和田町にあった神武遙拝所もサクラの名所で、花見客で大変なにぎわいだった。神武三階湯、上和田鉱泉があり、参道の畝傍(うねび)橋には「鯉池」という料理屋があったそうだ。
鶴辺団地の南東の斜面には「桜塚古墳」があり、樹齢数百年と言われた彼岸桜の老樹があったそうだ。
●江戸時代は観音山・清水寺で花見
江戸時代に春の行楽として花見が広がったようだが、高崎の観音山も当時から花の宴でにぎわっていた。この頃の観音山の名所は、石原町の清水寺で、五百数十段の長い石段の両側にサクラの花が咲き、みごとな花のトンネルになっていたという。
清水寺は大同3年(808)に、坂上田村麿が建てたと伝えられる古いお寺で、現在の堂宇は江戸時代の寛文11年(1671)頃に高崎城主・安藤重信が施主となって再興した。高崎藩との関わりも深い寺であった。観音山が「観音山」と呼ばれるのは、清水寺の本尊が千手観音であったことが由来とされる。なお清水寺の「十日夜(とおかんや)」は一円から人々を集めてにぎわった。
清水寺がいつごろから花見の名所となったのかは、はっきりしないが、花見は庶民だけではなく、高崎藩士の楽しみでもあった。藩士は質素倹約を厳しく命じられていたので、妻子は遊山に行くことなどほとんどできなかったが、花の季節だけは例外で、重箱に料理を詰め親戚縁者と清水寺の花見を楽しんだ。
清水寺は花の名所として名を馳せ、上州一円から人を集めて大変なにぎわいだった。清水寺の石段下には立派な庭の大きな農家が2軒あって、茶店として屋敷を開放し、豆腐の田楽や団子を売って花見客をもてなした。井上保三郎が「桜花爛漫」な観音山公園を計画したのは、清水寺のにぎわいがあったからだ。
ソメイヨシノが普及したのは幕末から明治時代以降なので、この頃のサクラはヤマザクラであったのだろうか。石段のサクラに感嘆の声を上げながら登りつめると、辺りは花見の宴でにぎやかな声が響いていた。石段のサクラ並木は、少なくとも昭和30年代にはまだ、あった。現在は、サクラではなく、アジサイの寺として知られるようになっている。
清水寺石段の登り口には、高崎生まれの江戸期の俳諧の宗匠、西馬の一門が建立した芭蕉句碑「観音の甍(いらか)みやりつ花の雲」がある。観音山にふさわしい句碑である。
●観音山のサクラは保三郎と観光協会
江戸時代に観音山頂にはサクラはほとんどなく、松林となっていたが、ツツジなどが咲いて美しい景色だったという。サクラの始まりは、昭和11年に井上保三郎が白衣大観音を建立した時、参道や広場にサクラを植樹し、花見客が訪れるようになった。
観音山が本格的なサクラの名所となったのは戦後で、昭和27年に観音山で開催された「新日本こども博覧会」とその跡地の遊園地化により、白衣大観音と合わせた一大行楽地となった。昭和30年代に高崎観光協会は、観音山のふもとから山頂までのアクセス道路「羽衣線」や山頂駐車場を整備し、あわせて、花見イベントを宣伝し、毎年、大量のサクラの植樹を実施した。これにより、観音山全体がサクラで包まれ、サクラの名所として広く知られるようになった。一方、観音山観光の中心は、かつてにぎわった清水寺周辺から、白衣大観音や山頂周辺に移ることになった。
●高崎公園はいつからサクラの名所に?
高崎公園は明治7年に廃寺となった大染寺の跡地で、公園化される時に、ウメやサクラが植樹された。公園内の花はハクモクレンの巨木がひときわ目をひいた。元和5年(1619)に高崎城主になった安藤重信が植えたというので樹齢400年になる。
高崎市は公園化のために苦労を重ねた。この場所は高崎15連隊の作業場として使われ、隣に陸軍病院があった。周囲はうっそうとした雑木林で、市が公園として整えたのは、明治時代の終わり頃からだ。
高崎公園中央の池の噴水は、明治43年(1910)に高崎に初めて上水道が敷設されたのを記念して作られた。当時、吹き上がる水の高さは公園に植えられた木よりも高く、3mを越えていたという。完成時は見物人が押し寄せて大歓声を上げ、噴水は少し離れた柳川町あたりからも見えたらしい。水道敷設は全国で20番目、県内では初めてとなり、公園の噴水は近代化の象徴でもあった。昭和初年の高崎公園の写真を見ると、立派に育ったサクラの木が写っている。
鞘町に住んでいた俳聖・村上鬼城(1865~1938)は高崎公園の散歩を好んだという。昔の高崎公園は崖上と崖下に分かれ、烏川でボート遊びも楽しめた。
●高崎城にサクラはなかった
高崎城の時代、お堀の土塁のサクラは烏川崖上に1本しかなかったことが記録されている。お堀のサクラは明治時代に入って高崎15連隊となってから植えたものともされるが記録はなく、明治期の連隊の写真を見てもはっきりとわからない。しかし戦時中、サクラの季節に連隊内を市民に開放し、多くの慰問者が訪れ、余興なども行われた写真が残る。兵士として送り出された多くの尊い命と桜花を重ね合わせると感無量である。
戦後まもなく、城址地区を市民のいこいの場として公園整備する計画が立てられた。公園整備にあたって、植樹された樹木の記録はないようだが、この時にお堀のサクラが植えられた可能性が高い。
高崎のまちができて間もない江戸時代初期、高崎城主が普請した清水寺に始まり、江戸時代からサクラの名所となったことで、井上保三郎が白衣大観音を建立し、今、観音山いっぱいにサクラが咲く。城址公園のサクラは高崎の近代化と戦争の記憶を伝えるものでもある。文献は少ないが、サクラの花にも高崎の物語がある。
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