高崎アーカイブ Series2 No.29
高崎のご当地ソング
戦前・戦後
盆踊りで戦後復興。伝えていきたい「高崎音頭」
ブームの裏に高崎花柳界
ご当地小唄や新民謡のブームが昭和初年頃と戦後の2回あり、高崎でもご当地ソングがこの2回のブームの時に作られた。高崎の主なご当地ソングは左記のようである。
戦前=高崎小唄。高崎新調。観音小唄。高崎音頭。高崎行進曲。
戦後=高崎音頭。高崎夜曲。
柳川町に華やかな花街が形成されたのは明治時代の中頃とされ、明治の終わりから昭和にかけ黄金時代と呼ばれる時期があった。高崎花柳界は、邦楽、舞踊といった芸道に精進し、芸妓の師匠は東京の一流どころであった。日本舞踊は西川流の指導で前橋の芸妓は高崎の足元にも及ばないとされ、また花柳流も盛んで名取の芸妓も高崎には大勢いた。
柳川町の宇喜代の百畳敷の大広間は県下第一で、料亭も花柳界も花盛り、高崎の旦那衆は粋を競った。良家の子女はお茶やお華とともに日本舞踊や長唄を習い、「おさらい会」は華々しかった。小唄や民謡のブームを作る芸能文化が高崎で熟していた。
「波浮の港」でご当地ブーム
歌の大流行でレコードの売上を伸ばそうとレコード業界は、野口雨情と中山晋平コンビに新民謡を作らせ、佐藤千夜子らが歌ってヒットを生んだ。
昭和3年に「波浮の港」が大ヒットすると、それまで無名だった伊豆大島の港に観光客が押し寄せ、新民謡の大ブームが起こった。柳の下の二匹目、三匹目のドジョウをねらう市町村、地方観光協会、新聞社、電鉄会社の協賛で、地方小唄が続々と生み出され、ヒット曲になった温泉地、観光地は大繁盛した。ブームの中で草津節や佐渡おけさなど注目を集める民謡も出て、八木節が全国的に有名になったのもこの頃である。
群馬で小唄ブームを作った上州小唄
このブームに合わせ、昭和4年に野口雨情作詞、中山晋平作曲で群馬県民謡普及会が「上州小唄」を発表し、群馬県内でも民謡ブームが高まった。昭和4年2月に高崎劇場で野口、中山を招き、高崎花柳界の歌と踊りで盛大に発表会が挙行されたという。上州小唄は、佐藤千夜子の歌でビクターからレコードが出された。この頃、野口・中山コンビと佐藤によるご当地小唄は全国津津浦浦から制作が依頼されており、「上州小唄」もその一つとも言える。
淡谷のり子の高崎小唄
上州小唄に続き、高崎でも昭和6年(1931)、中里東雲作詞、小松光子作曲の「高崎小唄」が発表され、淡谷のり子の歌で日本コロンビアから1,200枚発売された。中里東雲は宿大類村の出身で若い頃から俳句や短歌をたしなみ、高崎小唄で名を上げた。
高崎のご当地小唄に淡谷のり子を抜擢したというのは驚きを感じるが、淡谷はこの頃、まだ駆け出しで、シャンソンでの評価やブルースの女王と呼ばれるのは、ずいぶん後のこと。佐藤千夜子や淡谷のり子のような楽譜の読める音楽学校系の歌手が、ご当地ソングの量産に重宝されたのであろう。
高崎市史には「人々は不況を忘れるかのように声を合わせて歌った」と記されている。
高崎新調が続き、観音小唄も
同じ昭和6年、高崎郷土宣揚会の作詞募集で特選になった「高崎新調」が日本コロンビアからレコード発売された。高崎新調は、戦前の日本舞踊を代表すると言われた高崎出身の舞踊家・花柳徳兵衛の振付で、高崎花柳界でよく唄われた。
その後、上野新聞社が募集した「高崎音頭」、「高崎行進曲」が作られ、白衣大観音が建立された昭和11年、読売新聞社が公募した「観音小唄」など数多くの新民謡が、高崎を中心に唄われた。現在、知られている高崎音頭は戦後のもので上野新聞社の「高崎音頭」とは別の歌。
こども博の記念で「高崎音頭」
高崎の盆踊りと言えば「高崎音頭」で、多くの年輩者に馴染みがあり歌って踊れる人も多いだろう。
昭和24、25年に、戦後復興の中で、町内の盆踊りが復活しはじめた。戦争で亡くなった人々を悼むとともに、新たなまちづくりへの力強い息吹きだった。
昭和26年11月、翌27年に観音山を会場に計画された新日本こども博を機に、全市民の民謡として、高崎市は「高崎音頭」と「高崎夜曲」の歌詞募集を行った。審査員はサトウハチロー、古賀政男、音頭の振付は高崎出身の花柳徳兵衛。応募作品は170で、高崎音頭は勢多郡の瀬尾良雄、高崎夜曲は上佐野町の小山英雄が選ばれた。歌詞をサトウハチローが補作し、古賀が作曲、高崎出身の平井輝夫らの歌で昭和27年4月にキングレコードから発売された。後に女優山路ふみ子と平井らが高崎の国際座でショーを開き、盛況だった。
高崎音頭は、戦後のご当地音頭の先駆けで、県内では、前橋音頭(昭和31年=山崎正作詞・三橋美智也)、桐生音頭(昭和32年=島倉千代子)などがある。
関東大震災後と戦後に、盆踊りブームがあったという。大災害や戦争で亡くなった人への鎮魂であり、焼け野原から復興を誓う市民の心を表している。東日本大震災後の東北の祭りも同じだ。
高崎市は昭和47年に高崎音頭をEP盤で復刻しているが、盆踊り用に町内に配布したものと思われる。
大ヒットした「お富さん」
高崎のご当地ソングと言える歌で最大のヒットは、昭和29年にキングレコードから発売された春日八郎の「お富さん(山崎正作詞、渡久地政信作曲)」であろう。作詞の山崎正(松浦正典)は高崎中学卒業。戦後、柳川町の電気館のそばに「幌馬車書房」を開いた。「お富さん」の歌詞は柳川町の風景が盛り込まれている。
作曲した渡久地は、当時人気絶頂の岡晴夫に歌わせようとしたが、岡が他のレコード会社に移籍となり、デビュー以来、パッとしないままでいた無名の新人、春日八郎に変更。65万枚をセールスした。この年、電気館の歌謡ショーに、春日八郎、三橋美智也らが出演し、大盛況だった。山崎は前橋市に移ったため、前橋ゆかりの人ともされ、前橋音頭を作詞した。
今、こうした高崎のご当地ソングを知る人も少なくなっているが、大切にしたい高崎の文化である。
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