髙崎唱歌
散歩風景31
吉永哲郎
唱歌の31番は「それに続ける新町(あらまち)は 憲兵屯所に延養寺 ここに設けし授産場は 軍人遺族の為とかや」です。
以前、県外の人は「新町」をシンマチ、シンチョウといい、「アラマチ」となかなか口にできませんでした。いまは旧多野郡新町と合併後、区別するために「あら町」とひらがな表記になりました。
さて「あら町」は中世以来、和田氏の集落のあったところです。享保(1716年)の初め頃まで、町は河船を持ち、江戸へ荷物を送り、また常盤町の烏川筏場を管理していました。交通の要の風格をもち、本町と同様にあらまちは旅館を藩主から許されていましたが、伝馬(てんま)の継立(つぎたて)を負担する役割を義務づけられました。
幕末には自然災害や飢饉が重なり、伝馬継立が多くなり、1862年(文久2)正月の本町から出火した火事により、あら町はほとんど焼け、その苦しさは想像絶するほどで、その復興のために禁制であった旅芝居、角力、小見世物、旅籠屋に飯盛り女を置くなどの許可を、藩に願い出ました。なかなか許可がおりないので、あら町の人々は箱訴(はこそ)に及びました。
この一連の、町をあげての請願運動を「御伝馬事件」といいます。請願は藩主に通じず、加えて元治元年以後の高崎周辺は騒がしくなります。延養寺境内に1918年(大正7)建立の「御伝馬事件之碑」があります。あらまち散歩の第一歩は、この碑を訪れることからです。